近代の断層 第11章
サルトル ジャン=ポール・サルトル
生まれつきの設計図なんてない。人は、まず存在し、自分で自分を作っていく。
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1. 一言で
生まれつきの設計図なんてない。人は、まず存在し、自分で自分を作っていく。
ジャン=ポール・サルトル(1905–1980)は、こう説いた20世紀フランスの哲学者です。「実存主義」の代表者で、哲学・小説・演劇・政治参加のすべてで時代を動かした、「行動する知識人」の象徴でした。
先に、読むときの構えを2つ。ひとつ——サルトルは、前半生(個人の自由の哲学)と後半生(マルクス主義への傾斜)で、大きく変わる人です。混ぜると訳がわからなくなるので、このページは時系列で分けて見ます。ふたつ——この人は、20世紀最大級の知識人であると同時に、政治的な評価が激しく割れる人でもあります。崇めも、断罪もしません。
2. いそがしい人へ
3つだけ、先に。
- 核心:人間には、神や生まれによって決められた「本質(役割・目的)」なんてない。まず存在してしまい、そのあとの選択で自分を作っていく(実存は本質に先立つ)。ただしそれは、言い訳が一切できない「自由の刑」でもある。
- なぜ重要:「こう生きるべき」という役割の押しつけから人を解放した。ボーヴォワールのフェミニズムをはじめ、あらゆる解放運動の理論的な土台になった。
- よくある誤解:「地獄とは他人のことだ」は、“人間関係って煩わしいよね”という愚痴ではない(本文で解きます)。そして「実存主義=暗い虚無主義」でもない——本人いわく、むしろ希望の哲学です。
3. どんな人?
1905年、パリ生まれ。幼くして父を亡くし、学者の祖父の家で育ちました。
エリート校の高等師範学校を出て、1929年、哲学の教授資格試験に首席で合格します。このとき次席だったのが——のちに『第二の性』を書く、シモーヌ・ド・ボーヴォワール。二人は生涯の伴侶になりますが、籍は入れませんでした。互いの自由を認め合う「契約結婚」のような関係を、50年続けた。「結婚とはこういうもの」という、役割が先にある制度を拒む——それ自体が、彼らの哲学の実践でした。
第二次大戦で兵士として召集され、ドイツ軍の捕虜を9か月経験します。釈放後は抵抗運動に関わり、ナチス占領下のパリで、主著『存在と無』(1943)を書き上げた。「極限状況でも、人は自由でありうるか」という彼の問いは、この時代の空気と切り離せません。
戦後の1945年、講演「実存主義はヒューマニズムである」が大事件になります。会場は超満員、翌日の新聞に大見出し。実存主義は、戦後の世界を席巻するブームになり、サルトルはその旗手として、雑誌を創刊し、政治的発言を続ける「行動する知識人」になりました。
逸話をひとつ。1964年、彼はノーベル文学賞を、自分の意志で辞退した史上最初の人物になります。理由は「作家は、自らを”制度”に変えてはならない」。実は受賞が決まる前に辞退の手紙を送っていたのですが、賞の決定は取り消せない仕組みで、手紙は開封されないままだった——という後日談つきです。
晩年は視力を失い、1980年に死去。葬儀には、自発的な大群衆が集まりました(5万人と言われますが、当日の通信社の速報は1.5〜2万人。数字は資料によって割れます)。生前、政府への抗議活動で「サルトルを逮捕せよ」と迫られた大統領ド・ゴールは、こう答えたと伝わります。「人は、ヴォルテールを投獄しない」。
4. 中心となる考え
この章で、サルトルが取り外した「人生の設計図」
サルトルの思想は、一つの宣言から始まります。あなたの人生に、あらかじめ決められた設計図なんて、ない。
この人が押した、前提のスイッチ
人間には、
人間は、
彼の有名なたとえが、ペーパーナイフです。ペーパーナイフは、「紙を切る」という目的(本質)が職人の頭に先にあって、それから作られる。モノの世界では、本質が先。そして長いあいだ、人間も同じように考えられてきました。神様という「職人」が、人間を何かの目的をもって作ったのだ、と。
サルトルは、ここをひっくり返します。神がいないなら、人間には、先回りして決められた目的なんてない。人間はまず、ぽんとこの世界に存在してしまう( 実存 じつぞん(existence) 本質や目的に先立って、現に、ここに存在してしまっていること。人間のあり方の出発点。 )。そして、そのあとの選択と行動で、自分が何者か(本質)を、自分で作っていくしかない。——「実存は本質に先立つ」。人間だけが、設計図なしで生まれてくるんです。
自由なのに、「刑」?
設計図がない。何にでもなれる。……解放的な話のはずが、サルトルはこれを、こう呼びました。「人間は 自由の刑 じゆうのけい(condamné à être libre) 人間は自由の刑に処せられている。神も運命も言い訳にできず、全選択の責任をひとりで負う重荷としての自由。 に処せられている」。自由が、刑罰?
なぜか。言い訳が、一切できなくなるからです。神のせいにも、生まれつきの性格のせいにも、運命のせいにもできない。どう生きるかの正解を、誰も教えてくれない。すべての選択を自分でやり、その全責任を、自分ひとりで背負う。「選ばない」ことすら、「選ばないという選択」として、あなたの責任になる。この逃げ場のなさが、「刑」の意味です。
重さに耐えかねて、人は「モノのふり」をする
この重さに、人はなかなか耐えられません。だから、自分に嘘をつく。サルトルはそれを 自己欺瞞 じこぎまん(mauvaise foi) 自由の重さから逃げて、『自分はこういうモノだ』と役割に固まったふりをする、自分への嘘。 と呼びました。
有名なのが、カフェのウェイターの観察です。彼の動きは、少し機敏すぎ、少し丁寧すぎる。まるで「ウェイターという機械」を完璧に演じているみたいだ、とサルトルは見ます。彼は、「自分はウェイターというモノだ」と思い込むことで、「本当は、別の生き方だって選べてしまう」という自由の不安から、逃げているのだ——と。「自分はこういう人間だから」「うちはこういう家だから」。……私たちも、毎日やっていませんか。役割に固まって、モノのふりをして、自由から目をそらすこと。
「地獄とは他人だ」——たぶん、あなたが思っている意味と違います
サルトルのいちばん有名な言葉が、戯曲『出口なし』のせりふ、「地獄とは他人のことだ」。「わかる〜、人間関係って地獄だよね」という意味で使われがちですが——それ、誤解です。
彼が言ったのは、もっと深いことでした。鍵穴から、部屋の中をこっそり覗いている場面を想像してください。覗いているあいだ、あなたは「見る側」、世界の主役です。ところが、背後で足音がして、誰かに見られた——その瞬間、カッと頬が熱くなる。あなたは「見られる側」に、つまり、誰かの世界の登場人物・モノに、転落したんです。他者の まなざし まなざし(le regard) 他者の視線。向けられた瞬間、私は『見る主体』から『見られ、評価される客体(モノ)』に転落する。 は、私を勝手に評価し、レッテルを貼り、「そういう人」に固定してしまう。他人がいる限り、私は自分を100%自分では定義できない。 この逃れられない構造こそが「地獄」——人間嫌いのボヤキではなく、他者とともに生きることの、根本条件の話なんです。
で、これは暗い思想なのか
「意味はない。自由は刑。他人は地獄」。……暗い! と思いますよね。当時も「虚無的だ」「悲観的だ」とさんざん非難されました。でもサルトルは、講演で真っ向から反論します。実存主義は、むしろ希望の哲学だ、と。
本質が決まっていない、ということは——未来が、完全に開かれているということです。あなたはまだ、何者でもない。それは絶望ではなく、これから何者にでもなれる、という意味だ。だから彼は、その講演にこう題をつけました。「実存主義はヒューマニズムである」。
5. キーワード
4章の言葉は、カードでいつでも引けます。あと3つ、押さえておくと深まる言葉を。
- 投企 とうき(projet) 未来の可能性へ向かって、自分を投げかけること。人間は現状でなく、投企によって定義される。 (とうき):未来の可能性へ向かって、自分を投げかけること。サルトルにとって人間は、「今の自分がどうであるか」ではなく、「これから、どうするか」で定義されます。履歴書(過去)ではなく、投げかける先(未来)が、あなた。
- アンガジュマン あんがじゅまん(engagement) 傍観せず、自分の意志で社会や状況に身を投じ、拘束されること。社会参加。知識人の責任の実践。 :傍観者をやめて、自分の意志で社会や状況に飛び込み、責任を引き受けること。「社会参加」と訳されます。サルトルは、書斎にこもる知識人を批判し、自ら政治の渦中に身を投じました——その光と影は、6章と7章で見ます。
- 即自と対自 そくじとたいじ(en-soi / pour-soi) 即自=石のように自分と完全に一致したモノの存在。対自=人間の意識。常に自分と距離があり、未完成で変わり続ける。 (そくじとたいじ):モノ(即自)は、石ころのように、自分自身と完全に一致して完結している。人間(対自)は、常に自分との間にズレがあって、未完成で、変わり続ける。だから人間は、モノのように「安定」できない——それが不安の源であり、同時に、自由の源です。
6. 批判・限界
サルトルには、思想と政治の両面で、強い批判があります。3層で見ます。
(a) 前期への批判 — 「意志があれば自由」は本当か
前期の実存主義は、「どんな状況でも、人間は自由に選べる」と説きました。これに対して、意志の力を過大視した個人主義では、という批判があります。盟友の哲学者メルロ=ポンティらから、こう問われました。教育も受けられない貧しい農民が、サルトルの言う「全人類への選択と責任」を、同じように担えるのか、と。
大事なのは——この限界を、サルトル自身が認めたことです。貧困や階級という「構造」の前では、個人の意志だけでは足りない。この自己批判が、彼を後期の思想(マルクス主義との格闘)へ向かわせました。
(b) 後期の政治 — 評価が激しく割れる
後期のサルトルは、マルクス主義に接近し、革命の側に立って発言を続けました。この政治的な足跡は、いまも評価が真っ二つです。
(c) 構造主義からの批判 — 「主体」は幻想か
1960年代、サルトルの「自由な主体が歴史を作る」という考えは、次の世代の「構造主義」から決定的な批判を浴びます。人類学者レヴィ=ストロースは、人間は自由な主体などではなく、言語や無意識の「構造」に作られている産物にすぎない、と論じました。フーコーは「人間の死」を宣言。実存主義は、思想界の主役の座を明け渡しました。
7. つながりと対比
サルトルは、誰と決裂し、誰とつながるのか。
まず、何をおいても——カミュ。 このサイトのカミュの章で予告した「決裂」の相手が、サルトルです。
二人は戦時中、抵抗運動の中で結ばれた親友でした。それが1952年、公開の場で絶交します。発端は、カミュの『反抗的人間』への、サルトルの雑誌に載った痛烈な書評。カミュが編集長サルトル宛てに抗議の公開書簡を送ると、サルトルは「親愛なるカミュよ」と呼びかけながら、返答を公表しました。君の人格は蜃気楼になりつつある。1944年、それは未来だった。1952年、それは過去だ——という趣旨の、冷酷な返答でした。
争点は、歴史のための暴力でした。
そして、この話には後日談があります。二人は生涯、和解しませんでした。でも1960年、カミュが自動車事故で急死した3日後——サルトルは、追悼文を書いたんです。カミュは「モラリストの系譜の、現代の後継者」であり、その作品は「頑固なヒューマニズム」だった、と。絶交しても、敬意は消えていなかった。決裂と追悼、その両方が、二人の関係の全体です。
源流は、フッサールとハイデガー(“意識にどう現れるか”を問う現象学と、“存在とは何か”を問う存在論)。面白いことに、ハイデガー本人は後に「私の哲学はサルトルの実存主義とは違う」と、はっきり拒否しています。
ボーヴォワールの『第二の性』——「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」——は、「実存は本質に先立つ」を女性の状況に適用したもの。フェミニズムの理論的土台です。
そして、このサイトの人物たちと。ニーチェの「神の死のあとは、自分で価値を創る」を受け継ぎつつ、孤高の超人ではなく万人の自由と社会参加へ広げた。フランクルとは正反対の好対照——フランクルは「意味は、どんな状況にも見出されるのを待っている」、サルトルは「意味は、無から自分で創る」。**ブッダ**とは、「固定した自分などない」という出発点がそっくりなのに、ブッダは解脱と静寂へ、サルトルは社会への拘束と闘争へ——同じ地点から、逆方向に歩いた二人です。 → カミュ・ニーチェ・フランクル・ブッダ につながります。
8. いまの自分に、どう効くか
「自分らしく生きよう」「人生は、自分で選べる」——広告にも自己啓発にもあふれるこの言葉の元栓を開けたのが、サルトルです。まず、追い風の面から。「生まれつき決まった本質などない」という宣言は、伝統・宗教・身分・性別——あらゆる「こう生きるべき」の押しつけから、人を解放しました。ボーヴォワールのフェミニズムをはじめ、抑圧されてきた人々が「私は、社会が貼ったレッテルではない」と立ち上がるときの、哲学的な根拠になった。同調圧力に息が詰まりそうな人にとって、「あなたの人生の主導権は、あなたにある」というメッセージは、いまも強力です。
でも、落とし穴もある。「すべては自分の選択」が自己啓発ふうに薄められると、貧困や差別という構造を無視した、冷たい自己責任論に化けます(スマイルズで見たのと、同じ横すべりです)。「地獄とは他人」は、俗流の愚痴として消費される。そして——社会参加(アンガジュマン)が教条的なイデオロギーに暴走する危険を、サルトル自身の政治的な誤りが、身をもって実証してしまいました。
さて。サルトルは、このサイトが言ってきたことの、いちばん過激な肯定者です。だからここで一度、この人とサイト全体との関わりを、言わせてください。
このサイトは、ずっと「小手先の枝葉ではなく、世界観(根っこ)を変えろ」と言ってきました。サルトルは、その営みの、いちばん過激な肯定者です。彼に言わせれば——そもそも、あなたの根っこは、最初から決まってなどいない。あなたが選んだものが、根になる。 ニーチェの「創れ」も、ブッダの「手放せ」も、ソクラテスの「問え」も、この次に出会うフランクルの「応えよ」も——どれを選ぶかは、誰も決めてくれません。それが、あなたの「自由の刑」です。
ただし、サルトル自身の人生が、最後の注意書きになっています。選ぶ自由は、間違いうる——彼の政治的誤りが、そうだったように。だから、一度選んだら終わり、ではない。選び直し続けるしかない。
それでも、締めはこの一言でいいと思うんです。あなたはまだ、何者でもない。それは、これから何者にでもなれる、ということだ。
9. もっと知る
サルトルは、入口を間違えなければ、ちゃんと読めます。
読む順の目安
- まず『実存主義とは何か』(人文書院)。1945年のあの講演の記録です。本人による、最も平易で情熱的な実存主義の解説。最初の1冊は、必ずこれ。
- 次に、小説『嘔吐』。存在の無意味さに文字どおり「吐き気」を催す主人公の物語。鈴木道彦の新訳が読みやすいです。
- 主著『存在と無』は——正直、極めて難解です。覚悟のある人だけ。先に海老坂武のNHK「100分de名著」などの解説書を読むことを、強くおすすめします。
10. まだ決着していないこと(両論ボックス)
このサイトは、確定した史実と、解釈が割れる論点を分けて記述しています。崇拝も断罪もせず、出典に当たれる形を心がけました。サルトルについては特に、前期と後期の思想、哲学と政治的行動、そしてカミュとの決裂と追悼——その両面を、どちらか片方だけの絵にしないよう努めています。
もっと知る — ブックガイド
入門(まずここから)
- NHK「100分de名著」サルトル 実存主義とは何か(海老坂武) 研究の第一人者による超入門。原典の前に。最も易しい。
- 存在と無(松浪信三郎 訳・ちくま学芸文庫) 主著。極めて難解・上級者向け。解説書を先に。
原典(挑むなら)
- 実存主義とは何か(伊吹武彦ほか訳・人文書院) 1945年講演の記録。最も平易で情熱的な入口。最初の1冊はこれ。
- 嘔吐(鈴木道彦 訳・人文書院・新訳2010) 小説。存在の無意味さに『吐き気』を催す主人公。新訳が読みやすい。中級。